私の好きなモノの根底には、愛着を持ってずっと使えるということがある。これは同じ時間を過ごすことで、モノ自体にも様々な思い出が刻まれるからだ。同じ時を過ごすと言う意味では、時を刻む腕時計以上に相応しいモノはないだろう。しかし毎日身につけるモノである以上、実用性が高くなければ困る。とは言え、実用性一点張りで趣味性が乏しいのも面白くない。

腕時計における実用性を考えると、やはり精度があげられる。機械式時計の精度は個体差が大きいが、現行モデルであれば日差±15秒以内が一般的だろう。だがクォーツ時計なら、日差などほとんどない。

クォーツは日本のセイコーが世界で初めて商品化し、世界標準となった技術である。1968年、幾度目かの挑戦にしてセイコーはついにヌーシャテル天文台コンクールで上位を独占する。同社はさらなる精度追求の結果、翌69年に世界初のクォーツ腕時計であるセイコー・クォーツ『アストロン』を発表、月差±3秒と言う驚異の精度を叩き出した。スイスの時計産業に与えた「クォーツ・ショック」は大きく、量産技術の確立とコストダウンに伴ってクォーツ時計の販売額は急拡大した。反面、機械式時計の市場規模は縮小を余儀なくされた。今やクォーツ時計の精度は年差のレベルであり、単純に精度だけなら機械式時計の出る幕はない。
このクォーツの登場は職人の経験と手作業に頼った時計造りの終焉を意味するかに思われた。
しかしヒトとは天邪鬼なものだ。実用性が満たされると、今度はブランドが積み重ねた技術革新の歴史、デザインと言った趣味性を求めてしまう。

バブルの象徴とも言われたコンビや金無垢ロレックスは、趣味性よりもステイタス性(ワシはカネ持ってんぞー的ステイタス)だけが無意味なまでに強調された悲しい(?)結果だろう。



そんなバブルの申し子・地上げ屋御用達の似非ステイタスはさておき、「クルマ・時計・カメラ」は進化し続ける技術とは違った趣味性を我々に与えてくれた。近年の機械式時計ブームによって、クォーツ時計を生み出したセイコー自身も98年に機械式のグランドセイコーを復活させた。

ケータイでも、安価なクォーツ時計でも、今や正確な時間を知ることが出来る。しかし電子制御に頼ることなくゼンマイと歯車というロゥテクを職人芸で仕上げることで、ここまで時間を正確に捉えられると言う事実。そしてその精度を可能にしてきた職人達の技術と情熱の積み重ねに、私は惹かれてやまない。
汝、精度にのみ生きることなかれ。